【第7回】「倉田清十郎という男:其の二」

(更新日:2012.12.25)
メリー・ダークネス!!
この連載が掲載されるのは12月25日。いわゆるクリスマスです。
ツイッターでも書いたのですが、例年必ずライブだったりイベント事だったりで過ごしていたので、今年は非常に味気なく、物足りないことこの上ない聖夜でした。

なもんで、いわゆる「リア充爆発しろ」的なテンションを込めて叫ぶ言葉が冒頭の「メリー・ダークネス」です。これ流行らそうぜ。 もっとも、世間はいつもクリスマスとは恋人同士で過ごすもの、なのに恋人いない、だから僕は惨め、圧倒的負け組。みたいな空気を醸し出す傾向にあるけど、それって絶対におかしな話で。
クリスマスでも、バレンタインでも、外来のイベント事を上手いこと宣伝して消費者のテンションを上げさせる、「みんな盛り上がってるから乗り遅れんなよ」的なコマーシャリズムが我々の身の回りに満ち溢れていることを暴き出し、見抜いた上で、それでもあえて乗っかり楽しく過ごしたいものです。
やっぱり、タイミングっていうか機会というかきっかけがないとなかなかお祭り事って出来ないもんね。
ハッピーな時間を過ごすと言うのはどんなきっかけであれ、非常に素晴らしいものです。
あー、来年は絶対クリスマスにWING WORKSでライブとかやってたい!!
そしてこの話を長々としたい!!本来のクリスマスの意義とかちゃんと調べて発表したい!!
クリスマスにライブやる度に必ず耳にした、「彼氏or彼女いないからライブ。。」みたいな謎の劣等感を持つ必要は一切無いと声を大にしてみんなに伝えたい!!
そして単純にライブやってる、参加してる人たちが羨ましい!!
そんなすべての感情をひっくるめて叫ぶ言葉こそが、「メリー・ダークネス」なのです。
結構深いっしょ?類語には「メリー・カタストロフ」「メリー・クライシス」などがあります。もちろん今、思いつきました。

そんな折、先日1月16日発売のWING WORKS初リリースにしてフルアルバム「STAR GAZER MEMORY」の予約特典CD-Rに収録される、「メトロア」という曲のレコーディングをしてきました。

この曲、超いかつい暴れ曲です。
アルバムの構想段階から、どうしても一筋縄ではいかないトリッキーな表現を作品に込めたいという思いがあり、どうしようかなと考えているうちに、「あえて一曲だけ別の形で届けることで、単体では絶対に全貌が見えないアルバムにする」というアイディアが浮かびました。
アルバムの流れって俺すっげー大切だと思っていて、「STAR GAZER MEMORY」はその表現にも徹底的にこだわれた気がしています。
ただ、もしも「メトロア」がアルバム内に収録されていたらそのあり方は結構大きく意味合いが変わってくる。
逆に言えば「メトロア」なんか無くても完成している、だからこそ逆に言えば、「メトロア」が「STAR GAZER MEMORY」と同時期に存在している限り、絶対にこのアルバムは未完成な作品であり、最終的な補完はその両方を聴いてはじめて「ああ、WING WORKSってこうなんだ」と聴き手それぞれの解釈で行われる、そういうことを表現したかったから。
だから、まずは絶対にアルバムを先に聴いてください。その上で「メトロア」を聴いて、本来ならアルバムの何曲目に入ってるべき曲なのかどうか、この曲がもしアルバムに入っていたらどんな風に全体の印象が変わっていたか、この曲がアルバムの世界で果たす役割とはなんなのか、それぞれの中で考えてみて下さい。
そうすることで君だけの「STAR GAZER MEMORY」が完成します。そして、そこに至るまでの考えは100人いれば100通りあるので、誰のものとも違う、完全オリジナルの「STAR GAZER MEMORY」が君の中にだけ生まれます。 俺がやりたかったのはそういうことでした。

マジで、楽しみにしてて下さい。

さてさて、前々回の続きである10月に出演した舞台「魔がさす」のお話。
俺が演じた「倉田清十郎」という孤高のダークヒーローとの出会いと、まだまだ遠い自分と彼の距離感に気付かされたというところまででした。

今回は、心に闇をもった「倉田清十郎」という男と、同じくひとりの男である俺自身がどの様に向き合っていくかという部分についてです。

「読み合わせ」と呼ばれる、台本に書かれた台詞を追ってゆく段階から、「立ち稽古」といういわゆる舞台の稽古でもっとも数多く、長い期間行われる動きをつけての稽古に移行するまで、さほど長くはかかりませんでした。
役者陣も台本を持たずに台詞を身体に入れはじめ、本格的な稽古が続く毎日がはじまりました。

大物スター俳優である倉田清十郎は付き人「鶴岡」をへっちゃらで殴りつけるし、大部屋にやってきた役者の妹「春子」に幾度と無く関係を迫る、超破天荒でピカレスクな男でした。

当然、立ち稽古に入ると俺は芝居の中で鶴岡役の中大雅(なかたいが)くんを数え切れないほどぶん殴らなきゃいけなし、春子役の内野真理(うちのまり)さんに襲い掛かり押し倒さなきゃならない場面が何度もありました。

同世代とはいえ、相手は自分が何度も観客として観てきたプロの役者さん。 まったくもって緊張しっぱなしで、どうにもこうにも固い芝居から抜け出せない毎日でした。
自分なりに「倉田清十郎はこうするだろう」というイメージをしっかり持って稽古に臨んだつもりでも、そこにあるのは頭の中で作られた、ぎこちない表現。
脚本演出の江嵜大兄(えざきおひね)くんからは何度も【芝居になっている】という駄目出しを受け続けました。

この【芝居になっている】という言葉が、自分にとってはものすごく衝撃的でした。
つまり、あらかじめ作られた表現ではなく、そこに本当に生身の人間が存在しているかのようなリアルな表現が求められているということ。
舞台の上で、感じるままに、自分自身であらなければならないということ。 「演じる」ということの概念が完全に自分の中で変わった瞬間でした。

きっと計算されたことではなく、自分自身が「倉田清十郎」にならなければ、自分自身の中に「倉田清十郎」を構成する要素を作り出すのではなく、元々持っている自分自身から「倉田清十郎」を見出さねば、舞台に立つことは出来ない。
俺の中のいったい何処に彼はいるんだろう。探さなくては。自分のこれまでの人生はどうだったろう。
そんなことばかり考えながら稽古を重ねていました。

そして、忘れもしないある日。
「鶴岡」と「倉田」、「春子」と「倉田」の駆け引きが重要な場面を重点的に稽古している時、脚本演出からこんな指示が出ました。

「一度、稽古をストップしよう。椅子をふたつ持ってきて。」

目の前に、座れば膝と膝が当たるくらいの近い距離に椅子が向かい合って用意されました。
「倉田、ここに座って。最初は鶴岡にしよう。鶴岡も座って。」
稽古場のど真ん中に俺と中大雅くんが向かい合って座り、その様子を他の役者さんたちが注目していました。
「みんなは、自由にしててください。二人以外は休憩。好きに話したり練習したりしていていいから。」
その言葉で、まわりは一気にリラックスしたムードに。
対照的に俺は何がはじまるのかまったく分からない状態でした。

「今からふたりには、3分間、何もせずに【見つめ合って】もらいます。」


さて、何がはじまるのか。
それはまた来週のお楽しみ。それって元旦じゃねーか。めでたすぎる。

お気づきのように、今回はいつもよりボリューム増しでお届けしました。
RYO:SUKE/リョヲ丞からのささやかなクリスマスプレゼントさ!!

来週はお年玉をあげよう!!