YUCHI【第4回】
(更新日:2013.12.17)
どうも、ユチです。毎回長々とし内容で申し訳ないですが、今回も懲りずに書いてゆきたいと思います(笑)。
相も変わらず僕のバンド遍歴を綴らせて頂きます。
ちなみに今回は前回よりも更に長いです(笑)。
宜しくどうぞ!
2003年-
この年は僕にとって新たな、そして大きな経験を得る年になりました。
k@mikazeを脱退した僕は、新しくバンドを組む為に、メンバー探しをしていました。
本当に長く続けることの出来るバンドを結成したく、メンバー探しもはとにかく慎重に、妥協せずじっくりと探していました。
そんなとき、前回でもお話した、MIYAVI君からの連絡がありました。
MIYAVI君は自身のバンド、Due'le quartzが解散し、ソロ活動をスタートさせていました。
当時の彼は今のように「サムライ・ギタリスト」とは名乗っておらず、
ギター、というよりは歌と楽曲に重きをおいた、わりとソロとしてスタンダードなスタイルでした。
Due'le quartz自体も、解散とは言え、まだまだシーンの中で圧倒的な人気を誇っていたので、
バンド内でも中心人物だったMIYAVI君のソロ活動は、まさに注目の的だったと思います。
そんな彼とは前年から交流があって、彼の家に遊びに行ったり、ご飯に連れて行ってもらったりと、ちょこちょこお世話になっていました。
そのMIYAVI君がソロとして初のライブを行うということになり、僕はサポート・ベーシストとして誘ってもらったのです。
前述した通り、僕は自分のバンドのメンバー探しをしていたのですが、なかなか思ったようにメンバーが見つからず、少しやきもきし始めていた時期でした。
そこでサポートをしながらメンバー探し、というのも悪いことではないし、特別ほかに断る理由もなかったので、サポートのお話を受けることにしました。
そこで僕が経験させてもらったことはとても多く、そして大きいものでした。
まず僕にとってホールライブということ自体が初めてのことで、サポートとは言えど、とにかくドキドキしたのを覚えています。
MIYAVI君のソロ1発目のライブ、しかも場所は渋谷公会堂ということで周囲の期待度も高く、チケットもソールドアウト。
そんな場面に自分も参加できる。
まだ19だった自分が興奮しないわけありません。
「ゲネプロ」といういわゆる通し稽古も初めて経験しました。
機材もしっかりと揃った、僕にとって「プロが使っていそうな」スタジオで(笑)、プロフェッショナルなライブ製作スタッフや楽器担当スタッフ。
至れり尽くせりの状態で日にちも時間もゆったりととったリハーサル期間。
もちろんいつかは自分のバンドでも!と思っていた環境ではあったのですが、
それまでの自分がしてきたバンド活動での環境とはさすがにまだまだ開きあったので、
全てが新鮮で、そしてこんな機会に自分を参加させてくれたMIYAVI君には本当に感謝感謝といった感じでした。
入念なリハーサル期間を終え、いざ渋谷公会堂ライブ当日へ。
会場はパンパン、場内は興奮と期待感で持ちきりといったムードでした。
本番はサポートと言えどとにかく楽しくて楽しくて、もうずっとアドレナリンが出ていたような状態だったのを覚えています(笑)。
ステージから見える景色も最高で、本当にいい経験をさせて頂きました。
その日の打ち上げで、僕が今でもお世話になっている、DYNAMITE TOMMYさんにも初めてお会いさせて頂きました。
超後輩の僕にも関わらず、とても丁寧に、優しく接して下さいました。
TOMMYさんにはいま現在でも、とてもよくして頂いています。
初めてのサポート活動となる、渋谷公会堂でのライブも無事に終え、その時に僕は初めてギャランティを戴きました。
まあいわゆる「ギャラ(報酬)」といったやつです。
僕がこれまでやってきたバンドでも、CD等の音源の売り上げをもらったことはあっても、自分が働いた対価にあたる「ギャラ」を戴くのはこの時が初めてのこと。
渋谷公会堂という、僕にとっての大舞台に立てるだけでも有り難く思っていた自分にとって、
さらにライブの出演報酬までもらえるということは、とても大きな出来事でした。
それと同時に、お金を戴く「重み」も感じることになりました。
「これがプロなんだ。自分の技術とパフォーマンスに対してのクライアントからの信頼の証なんだ。」
もちろん僕はバンドを始めた17才の時から自分はプロだという意識を持って活動してきましたが、その重みが最もわかりやすい形で実感できた瞬間でした。
その「重み」は僕の中で、「誇り」と「責任感」に強く直結するものになったと思います。
これは立派な「仕事」であり、だからこそ生半可なことは出来ないなと。
その後の僕の2003年は、アルバイトをしながらメンバーを探したり、曲を作ったりし日々でした。
ただ正直なところ、メンバー探しに関してはなかなかうまくゆかず、自分にとって音楽との一番いい向き合いかたとは何なのか、考えるようになっていました。
「バンドマンではない自分」に何が残っているのか。
そこには「ベース」と「作曲」、その2つが僕の頭の中にありました。
もしこのままバンドを組む事が出来なかった場合、僕が音楽の世界で勝負していく上でこの2つがその手段になると。
そう考えながら2003年を終えることとなりました。
さて、今回も読んで下さってありがとうございます!
ではまた次回!
YUCHIでした!